昭和49年6月17日 朝の御理解
                             中村良一
御理解 第54節
「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」



やれ安心、勢いの世界と、真のおかげと書いてございますですね。安心立命。いわゆる、安心の大みかげと。信心させて頂くには、目指すところは、そこでなからなければならんと言うのです。私は、昨日申しましたが、教祖様の御教えの全て、その全てが、お徳を受けたことのための御教えばかりだという事です。
先日、あの、桜井先生が、おかげの泉が、もう沢山貯まって、それを、三冊か四冊かに、こう纏められた。それで、整頓をされながら、どこを開いてみてもです。いわば、お徳を受けるという話ばっかりですね、親先生と言うて、話されました。どこを開いてみてもです。御徳を受けるためにはと言う、そのまたは、受けていくためには、こういう信心と言う。御徳を受けていく事の為のお話ばかりですなと言うのです。確かに、そうです。ですからね。それをほんなら、具体的にいうと、いわば、安心立命のおかげ。心のなかに、どのような場合であっても、安心しておれれる心の状態を願い求めて、信心はするものだと。願い求めるところが、目先のおかげという事ではない。それは、痛ければ痛い、痒ければかゆいで願います。願いますけれども、願ったが最後はです。もう神様が、より良いほうにしか、おかげは下さらんのだと言う確信が出来てくるという事です。ね。人間の浅い知恵、浅い力。神様の思いというものは、どこまで深いか、どこまで広いか分からないと、その分からないと言うところまで、分かった時が、信心が分かった時だという御教えを、先日頂きましたね。お取次ぎを頂いて、お願いをさせて頂いたらです。そこが痛いから、または痒いから、難儀をそこに感ずるから、お取次ぎを頂いて、お願いをするんだけれども、ね。お取次ぎを願うたが最後、神様の働きは、より良いほうにしか、開けてはいかんのだと言う頂き方がです。いわゆる、身に付いて来る。そこから生まれてくるのが、安心ですよね。しかも、それが、段々段々、積もり積もってくる、そこから、安心の徳とでも申しましょうか。ね。いわゆる、御道で言う、神徳とこう言う。ね。いわゆる、神徳の世界に住むと言うか、神徳を受けるというところにです、ね。限りない神様のお心のなかに住まわせていただくことが出来るのです。
私は、今日、御神前で、奥城という事を頂いた。奥城と言うのは、金光教では、いわゆる、お墓のことを奥城と申しますね。奥という字は、奥の深いと言う奥です。つきと言うのは、城という字が書いてあります。だから、この頃から、奥城建立の、いわば、お供えが集まってきて、しかも、纏まった金額が集まってくるのです。だから、これは神様はもう、合楽にも、ここの御霊屋の裏が、納骨室になってます。もうその、納骨室が、一杯、それこそ、満員のごと、一杯になっております。本当にもう、奥城が建立されなければならない。そこで、この頃から、よりより、幹部の方達と話し合いをしたんですけれども。十年祭を願って、十年祭の合楽教会に、十年祭を願って、記念祭を目指して、その御用内容として、この度は、奥城の建立を思い立たせて頂こう。だから、委員が出来なければならないという様な話し合いがあっております。ね。ですから、その事の、まぁ神様、お催促であろうかという風に思っておるかも知れません。けれども、例えば、今日、五十四節を頂いてから、ははぁ、奥城とは、こういう事だなと思わせていただいたんです。ね。徳のない間は心配をする。神徳を受ければ心配はないと。ね。信心をさせて頂いて、段々、分からせて頂くこと、確信が募ってくることは、どういう事かと言うと、只今も申しましたように、お取次ぎを頂いて、お願いをしたことであるから、これは、自分の思う様にはならなかっても、神様の思いが成就していっておるのだと。私共には分からない。より良いおかげの為なのだという事が分かってくる。これが、私は、奥城という事だと思うです。奥という事は、先の事という事です。ね。
言うならば、行の信心をしておれば、なると言う、ね。強く確信が出来てくるから、安心がしておれれるのだ。皆なのおかげですと言えれるのです。どんな場合であっても。皆さん、信心はね、徳を目指すのですよ。だから、信心が中途半端になったら、そこん所には到達せんなりにです。ただ、おかげの世界だけで終わってしまわなければならない、ね。神徳を受ければとこう仰っておる。神徳を受ける、言うなら、神徳の世界に住むという事なんです。ね。
昨日は、尾道の高須教会のご信者さん方が、先生を先頭に五十五名、団体参拝をなさいました。私は、九州の大きな教会を、信心実習で巡拝して回られるのです。いわば、甘木とかね、久留米とか大きな教会、まぁ全国でも、九州の信心と言えば、まぁやっぱり皆が、評判になるぐらいにご比礼の輝いた土地ですから、そういうところを巡拝なさるので、まぁそれに来ておられるのかと思ったら、わざわざ、合楽教会の為に見えておるという事を、昨日、聞かせて頂いてですね。あの本当に有難い事だなと思いました。皆さん、一緒にお参りしておられたり、御用いただかれた方達は、もう本当に、その雰囲気の素晴らしいことに驚かれたかと思うのですけれども。とにかく、大変なご比礼を頂かれた教会です。教会長先生が亡くなられた。今、奥様と、その、が教会長で、親先生ご夫婦、ご信者さんの、もう一人ひとりがですね。言うならば、金光様のご信者と言うても、ただ、おかげを受けておる人達の集まりという感じでしたね、一人ひとりが。もう、それはそれは、大変な感動であり、大変な感激でした。もう、何時間後には、発って帰らんならんと言いよったけれども、段々、お話を頂いたり、お茶頂いたりしておられのに、もう、こちらが、もう時間じゃないですかち言わんならんくらいに、もうあの、喜んで、とにかく、別れ難い、そんな感じなんです。立ち上がられないと言う感じなんです。
昨日、末永先生が言ってました。親先生、もう本当に、おかげの泉が、あそこ一杯出してあった。全部、三万円がた売れた。ね。とにかく、このお広前がです。もう御徳で出来たお広前だと言われるのです。私は、ね。お徳を受けておるとも思いませんけれども、もう徹頭徹尾、ここは神様がお建てになったお広前、神様の御神徳で出来た、そこは本当ですね。神様の御神徳で出来た。それが、隅から隅までに、溢れておると言われるのです。これは私が言うとじゃないです。先生方が、そう言われるのです。そして、先生のお話を、ここで頂かせて貰うて。もうそれこそ、疲れも何もない。もうとにかく、この五体の血が入れ替わってしまうような思いだったち。疲れも、一遍に飛んでしもうた。ね。(じむちょう?)とか、あいよかけよなんかと言う、信徒会の雑誌が、皆さんが、申し込んであるから、ここへ取るんですけれども、申し込んだ皆さんが、持って行きなさらん。持って行きなさらんと言うが、あの買いなさらん訳です。だからここに、沢山、余っとったのが、積んであったでしょうが。ところが、それもみんな、こらあーた、お宅あたりの信徒会のあれだけん、(ございません。?)いいえ、ここのお広前んとなら、買うて行くち言うて、買うて行きなさったです。全部、売り切れてしもうた。だから、おかげの泉でん、前んとば出しときゃ、まぁだ売れとったでっしょうばってんち言うてから言ってます。ちょうど、三万円がた売れましたち。ほう、もうこの頃、おかげの泉のほうは、赤字続きだそうです。そしたら、また、ずっと取っておいてね、と言うて話したそうです。ね。お徳の臭いがするのです、ここにある物はみんな。お徳の香りがあるのです。ね。私は、そう思うです。ね。
そこで、ほんなら、中心であるところの、私の信心がです、段々、おかげを頂いて、どの様な場合であっても、言うならば、驚かんで住む、慌てんで済む。それは、どういう事かと言うとです。奥城を信じておるからです。奥城という事は、言うならば、生きても死んでも、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだという事も、そう言いましたね、奥城という事は、お墓です。死んだ先でもです。あーたのおかげを頂き続けなければです。ね。それを、ほんなら、奥城という事を、今日の御理解で、字から言うと、奥という事は、奥が深い、先の事という事。つきという事は、上品になると言うのですからです。お取次ぎを頂いて、お願いをしたのであるから、自分の思い通りにはならなくってもです。神様の思いが成就して行きよるのですから、ね。そら、訳は分かりません。それこそ、神様の広さ深さは、私共では、到底分かる筈はないです。そういう大きな働きを、私どもが信じると言うところから。ね。生まれてくるのは安心である。ね。おかげにしかならんとこういう思い込みである。みんな、こうであっても、必ず、おかげになると確信する。その心が、私は安心。その安心が積もり積もって神徳ともなる。そこに、言うなら、大安心というか、安心立命のおかげが受けられるという事になるのです。
昨夜は、恒例の宅祭りが、原さんのお宅で行われました。私が祭主をさせて頂いて、まぁ何時もながら、本当に、まぁ一生懸命の、思いを込めての、いわゆる、お祭りでした。御霊様へ、ご挨拶させて頂く時に、あちらのご主人、ね。いま、御霊様になっておられますが、自分の身体よりも大きいと思われる様な、大きな玉串を、こうやって持っておられるところを頂きました。玉串です。それで、皆さんに、その事を聞いて頂いたんですけれども。ね。原さん、お宅の場合はね、もう、おかげの受けられる受け物という意味ですかね。ね。これならば、もうおかげをやっても良いと、神様が安心、神様のほうが安心して おられると言う感じ。何故て、一家を挙げての、一生懸命の信心なのですから。あれがですねぇ、主人は信心するけれども、家内が信心せん。親は信心するけれども、子供が信心せん。家には嫁後が着いてきてくれると、本当いいばってんと、言う様なものじゃなくて、ね。家族を挙げての信心。
私は昨日、お祭り半ばに、ふっとこう、あの目を開けましたら、ちょうど私の、斜め横の所に、あちらの嫁になる良子さんが御祈念をしておられる。それに触れた時にもう、どうにも出来んほど感動が湧いてきたです。ね。それはあの、一生懸命に、その、大祓いを上げておられる姿に触れた時でした。お母さんやら、主人やらが、合楽に参るけん、今日はお祭りじゃから、まぁお付き合い、お付き合いち言うが、まぁその、まぁしょうことなしに、まぁと言うのではなくて、自分自身が、言うならば、中心になって、先頭になって。昨日も、あちらのお母さんが言うておられましたが。もう今度は、良子さんが中心になって、何もかも裁いてくれましたとこう言うておられます。ね。ですから、ほんなら、もう、ここに神様が、この家にならば、おかげをやっても間違いないという事になりましょうもん。ね。主人な、おかげを頂いたち言いよる。嫁後が、そらあんた、腑が良かったいち言ううならば、頂いたおかげに傷が付くですもん。本当におかげですねぇと、例えば、夫婦なら夫婦、家族中の者が、おかげですねぇと言えれるおかげを受けた時に、初めて、神様の満足がある訳なんです。ね。
そこで、そういう信心の基礎という様なものが、家族を、勢を揃えて信心が出来ておるという事がです。有難いけれども、ね。ここに、まぁだ悲しいことにはです。言うならば、信心が小さいという事なんです。ね。それでも、ほんなら、小さいおかげなら、ほんなら、日々、こうやって頂いておる。ね。もう、それこそ、何と言うでしょうか。毎日毎日が、ね。神様のおかげと、おかげを実感するけれども、それは、小さいおかげだという事なんです。そこで、原さん一家を挙げてです。豊かになりなさい、大きゅうなりなさいという事なんです。この玉串がです、この玉串が、ね。釣り合うような大きな心になりなさいという事です。神様は、その大きなおかげを渡したい。その大きなおかげを下さろうとしておる。
私は、昨日、あちらに、色紙に書いて、もう前に、差し上げておるのが、あの額になって、あそこへ下げてあります。ね。それには、こんな意味の事が書いてあります。私は、これは、私自身のことですね。私は、豊かな心の世界に住んでりますという事です。だから、豊かなものの世界にも、また、住んでおるということを書いてある。ね。私は、豊かな心の世界に住んでおる。だから、また、豊かなものの世界にも住んでおるんだという事である。皆さん、それは、皆さんも認めてなさらなければいけないでしょう。私が、如何に豊かな物の世界に住んでおるかという事が。それには、先ず、私が、豊かな心の世界に住まわなければいけないです。神様が願っておられる、御霊様が願っておられると言う事はです。その大きな、身体のように、自分の五体のように大きな玉串をです、ね。この玉串が釣り合うような人物というか、人間に、私が、成長するという事なんです。ね。そこで、いよいよ、原さん、いよいよ、尽きぬ信心をする以外にないねと。それにはね、この三つを一つ、本気で守りなさいと。願いなくして、繁盛するはずはありません。根がなくて、枝葉の栄えた試しはありません。そこで、根と言うのは、どこまでも、心なんです。だから、いよいよ、心中心、心を大切にしていこうと言うのです。ね。
次の、家の根は先祖です。言うなら、うからやからの御霊様達に対するところの真心の、いわば、奉仕が出来るおかげを頂きなさい。もう一つは、ここの信心の中心である、根本である、根であるところのお母さんの信心。それを大事にしなさいという事です。私はもう、大事にしとります。親孝行しよります。それは、決して親不孝はしておりません、誰だって信心でもするからには。けれどもね、その親に、もう本当に、喜んで貰おうとしてたまらんという心なんです。親に喜び、安心して貰わにゃおられないと言う、やむに病まれない心なんです。そういう、三つの根を大事にしていくならばです。ね。必ず、信心は成長する、大きくなるです。この大きな玉串が、釣り合うような大きな私になることです。そこに、神様が下さろうとする、大きなおかげの世界に住むことが出来る。ね。
徳のない間は心配をする。神徳を受ければ心配はない。お取次ぎを頂いて、お願いをしたからにはです。それは、思う様にはなってはいないかも知れないけれども、ね。それが、おかげのほうにしかならんという確信が、段々募ってくるところから、ね。どういう場合であっても慌てん。どういう場合であっても、心が安心しておれれる。それはまぁ、小さい意味合いでなら、皆さんが体験されるでしょう。信心のなかった時代には、そうにゃ腹も立っただろう。信心のない時代なら、これは、そうにゃ心配になっただろう。けれども、信心させて頂くようになって、それをお取次させて頂くと、ね。その心配は薄らいでくる、なくなって来る。ね。それが、募り募ったのがです。いわば、安心の世界であり、そういう安心が、募り募って、神徳という事になるのです。神徳を受ければ心配はない。それは、神徳を受けた人はね、心配はないかというと、そうじゃないと思うです。実際は、より素晴らしい、もっと深刻な心配があるです。ただ、自分の心を痛めないだけです。ね。それは、神様が心配なさるような心配が出来てくると私は思うですね。そら、神徳を受けてみなければ分からない。天地の親神様でも、やはり、難儀を感じておられるでしょう。または、心配なさっておられるでしょう。それはもう、大変、言うならば、深遠な心配。だから、ここで言うことは、人間が心配する様な事には、心配をせんで済むという意味なのです。人間が驚くと言うけれどもです。人間が驚く様な事には、驚かんで済むという事なんです。それが、神徳と言うのです。ね。そこにはね、いわゆる、限りない、恵まれ続ける神徳の世界というものがあります。ね。
そこで、その徳の臭いがするならばです。ね。その徳の臭いだけでも嗅ぎたい。昨日の、尾道教会のご信者さん方がそうです。もう、ここの物であるならば、もうそれこそ、どんなに古い、昔のおかげの泉なんかでもです。それを、全部買うて行かれた。これはあーた、お宅辺りにもあるご本じゃないですかと。いいえ、ここにあるものならば、頂いていくと言うて、沢山買うて行かれた。ね。やはり、御神徳溢れるばかりの教会にご縁を頂いて、信心の稽古をなさっておられる方達ですから。それが分かられるのです。私は、昨日、それを本当に、あの、一人ひとりのご信者さん方に感じましたよ。ね。
お取次ぎを頂いて起きてくること、みな良い。お取次ぎを頂かずして起きてくること、良いこと悪いこと、みな悪い。高橋博先生のお言葉です。ね。それを、先ずは確信することです。お取次ぎを頂いて起きてくることであるから、それは、見た目にはです、おかげでない様に見えるけれども。だから、それが、おかげと言える為に、お互い、信心修行しなければ、おかげと受けきらんのです。本気で、信心修行させて頂いておる時ならです、ね。これほどの思い、願いを持って、お取次ぎを頂いておる事であるから、これがおかげにならん筈はないと言う、奥城ですね。今日、私が、先のほうのおかげを信ずることが出来るのです。そこから、言うならば、まぁ安心のおかげが頂かれる。心が安らいでくる。そういう安心がです、積もり積もって、ね。いわゆる、安心立命という様な宗教の究極の所のものが、自分のものになっていく。それを、ここでは、神徳を受ければ心配はないと言うようなおかげが受けられる訳です。教祖様の御教えの全てがです、ね。御神徳を受けることのための御教えばっかりなのです。ね。言うならばです。お互いが、和賀心にならせて頂くことのための全てと言うても良いくらいです。教えの全部が。だから、いかにその、和賀心というものを目指すという事。そこには、勿論、ね。安心が伴わない筈がありません。神徳が着いてこない筈がありません。そこに、神徳の世界とは、こういう世界だと思われ、また人も感じられるほどしのおかげを現していくことが出来るのですよね。どうぞ。